幕末の「四大人斬り」の一人として知られる河上彦斎(かわかみ げんさい)。
『るろうに剣心』の主人公・緋村抜刀斎のモデルの一人となった人です。
小柄な体格ながら鋭い剣を使ったと伝えられ、後々「人斬り彦斎」の異名がついたようです。元治元年(1864年)の佐久間象山を暗殺したことで知られています。
これほど刀と関係の深い人物なら、「河上彦斎は、いったいどんな日本刀を使っていたのか?」気になりますよね。
河上彦斎の愛刀について調べると、よく登場する名前があります。
肥後国同田貫宗廣(ひごのくに・どうだぬき・むねひろ)です。
しかし「彦斎の愛刀=同田貫宗廣」と簡単に断定できないことが分かります。
「人斬り彦斎」と「肥後国同田貫宗廣」の関係を見ていきます。
河上彦斎とは
河上彦斎は天保5年(1834年)、肥後国熊本に生まれました。
幕末になると強い尊王攘夷思想を持つようになり、京都などで尊王攘夷派の志士として活動します。
彦斎の名を歴史に残した事件が、元治元年(1864年)の佐久間象山暗殺です。
佐久間象山は西洋の学問や技術を積極的に取り入れることを主張していた思想家でした。彦斎は京都で象山を襲撃し、斬ったとされています。
この暗殺などから、彦斎は「幕末四大人斬り」の一人に数えられ、「人斬り彦斎」と呼ばれるようになりました。
しかし、人斬り彦斎と呼ばれているのですが、史料上明確な暗殺として知られているのは佐久間象山ですが、それ以外の暗殺の記録は確認できませんでした。
『るろうに剣心』では、モデルの一人とされる河上彦斎とは対照的に、緋村抜刀斎は多くの人を斬った伝説の人斬りとして描かれています。
河上彦斎の愛刀として知られる「同田貫宗廣」
河上彦斎の愛刀として現在よく紹介されているのが、「肥後国同田貫宗廣」です。
同田貫宗廣は、肥後国、現在の熊本県北部を中心に活動した刀工の宗廣が打った日本刀です。
そして河上彦斎も肥後熊本の人物です。「肥後の人斬りが、肥後の同田貫を使っていた」。連想しやすい組み合わせです。
インターネットや刀剣関係の記事では「河上彦斎の愛刀は同田貫宗廣」と紹介されています。しかし、彦斎が実際に「肥後国同田貫宗廣」を愛用していたことを示す史料が何なのかは、調べた限り確認できませんでした。
「河上彦斎の愛刀は同田貫宗廣だったといわれている」という表現にしておきます。
同田貫宗廣とはどんな刀工なのか
同田貫は肥後国、現在の熊本県北部を中心に活動した刀工集団です。
「剛健にして折れず曲がらず、美装よりも実用本位」という実戦を重視した特徴の日本刀を打っていたようです。人斬りと呼ばれる河上彦斎が使うのにぴったりなイメージも持ちます。
江戸時代後期の同田貫の中心的な刀工の一人が宗廣です。
宗廣は、文政元年(1818年)には、水心子正秀の門弟である沼田有宗に入門して鍛刀を学び、その後、中国地方・京都・江戸など各地の刀工と交流しています。
肥後へ帰った後は他藩から弟子が訪れるほど知られた刀工になったといいます。
つまり宗廣は、彦斎が尊王攘夷派として活動していた時期とほぼ同じ時代を生きた幕末期の肥後を代表する刀工の一人だったわけです。
彦斎が宗廣の刀を所持していたとしても、時代的・地域的には不思議ではありません。しかし実際に所持していたことを裏付ける史料までは確認できませんでした。
佐久間象山を斬った刀は同田貫だったのか?
さらに気になる疑問があります。「佐久間象山を斬った刀は、同田貫宗廣だったのでしょうか。」
彦斎と刀について考えるうえでは、これが最も知りたいところかもしれません。
しかし、現在一般に知られている情報だけから、「佐久間象山を斬った刀=同田貫宗廣」と断定することはできません。
河上彦斎が佐久間象山を暗殺したことはよく知られています。そして彦斎の愛刀として同田貫宗廣が紹介されています。
この二つの情報が結び付けられて、「彦斎は同田貫で象山を斬った」というイメージが生まれた可能性も考えておく必要があります。
愛刀が何だったのかという問題と、象山暗殺時に使用した刀が何だったのかという問題は、本来別々に考えるべきでしょう。
「人斬り彦斎」と同田貫はよく似合う。しかし……
同田貫には「実戦的な日本刀」という強いイメージがあります。一方の河上彦斎は、幕末を代表する「人斬り」として知られています。しかも両者とも肥後にゆかりがあります。
そのため、「人斬り彦斎の愛刀は同田貫」という話には、思わず納得してしまいそうです。
しかし歴史的な事実として紹介するには、その根拠となる史料までは確認できませんでした。
現時点では、河上彦斎の愛刀として同田貫宗廣が広く紹介されていること、同田貫宗廣は彦斎と同時代の肥後を代表する刀工だったことは確認できます。
一方で、彦斎の所持刀だったことを示す確実な史料については明確には確認できておらず、佐久間象山暗殺に使われた刀を同田貫宗廣と断定することは難しいということがわかりました。
河上彦斎は、本当はどんな刀を握っていたのか
河上彦斎という人物には、「人斬り彦斎」という強烈なイメージがあります。
その彦斎の愛刀が、実戦刀として知られる肥後の同田貫だった――。物語としては、これほど似合う組み合わせもありません。
しかも同田貫宗廣は架空の刀工ではなく、彦斎と同時代に肥後で活躍していた実在の刀工です。だからこそ、この説は長く語られてきたのでしょう。
こうした「有名な話」が本当なのかを一つずつ確かめていくことがおもしろいですね。
河上彦斎が実際にどの刀を佩き、その刀で佐久間象山を斬ったのか。
もしその刀の銘や来歴を裏付ける史料が見つかれば、「人斬り彦斎」の姿はさらに具体的なものになります。
今のところ、河上彦斎と同田貫宗廣の関係は、「愛刀として広く伝えられているが、史料上はなお確認の余地がある」という少し謎を残した関係として捉えておくのがよいのではないでしょうか。
下書き時点の参考情報
・玉名市公式サイト:同田貫宗廣(1801~1871)、同田貫10代、水心子正秀門下の沼田有宗に入門したことなどを確認。
・河上彦斎の愛刀を同田貫宗廣、水心子正秀の脇差とする説については、公開情報では一次史料の確認が十分でないため、本文では断定を避ける。
・佐久間象山暗殺時に使用した刀と、彦斎の愛刀・所持刀は分けて検討する。
※後日、史料確認・文章調整・SEOタイトル等を仕上げるための下書き。

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