戦国武将の中でも、現在まで高い人気を誇る伊達政宗(だて まさむね)。
片目を失ったことから「独眼竜」の異名で知られ、三日月の前立を付けた兜等アニメやドラマの常連武将ですね。
そんな伊達政宗の刀といえば、燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)です。
「燭台切」という少し変わった名前ですね。この名前は、伊達政宗にまつわる逸話から生まれたという説があります。
しかも燭台切光忠には、政宗との逸話だけでなく、関東大震災で被災し、一度は失われたと思われながら現代まで残ったという数奇な歴史があります。
今回は伊達政宗という人物とともに、名刀・燭台切光忠に残された逸話を追ってみたいと思います。
伊達政宗とはどんな武将?
伊達政宗は永禄10年(1567年)、伊達輝宗の嫡男として生まれました。
幼少期に疱瘡(天然痘)で右目の視力を失ったと伝えられています。後々、その姿から「独眼竜政宗」と呼ばれてアニメやドラマで着色されていったのかもしれません。こはくの記憶では、NHKドラマ「独眼竜政宗」が最初かと思ってました。ところが調べてみると、江戸時代後期の儒学者・頼山陽が伊達政宗を詠んだ漢詩ですでに「独眼龍」と表現しているようです。NHKが作った呼び名ではなかったのですね。 今では「独眼竜政宗」という呼び名を知らない人はすくないですよね。
片目のハンデを抱えつつ、政宗は、戦国の世で頭角を表していきます。
18歳で伊達家の家督を継いだ政宗は、周辺勢力との戦いを重ねて勢力を拡大。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは蘆名氏を破り、南奥羽に大きな勢力を築きました。
しかし、このころ中央では豊臣秀吉による天下統一が目前に迫っていました。豊臣秀吉の勢いの前に、政宗は秀吉に臣従。こはくは独眼竜政宗に、勇猛でやんちゃなイメージを持っていました。しかし、情勢を読み、伊達家を存続させるための決断ができる人物でもあったのかもしれません。
その後は徳川家康の時代を生き抜きます。関ヶ原の戦いを経て仙台藩の初代藩主となり、仙台城と城下町の整備を進めました。
戦国武将としての華やかなイメージが強い政宗ですが、天下統一へ向かう時代の変化の中で伊達家の存続に舵を切った大名でもありました。
「独眼竜政宗」は当時から呼ばれていたの?
ドラマで有名な「独眼竜」。政宗の代名詞ですね。
しかし、政宗本人が生前から「独眼竜」を名乗っていたというわけではないかもしれません。
歴史上の人物には、本人が生きていた時代の記録に、後世の軍記物、講談、小説、映画、テレビドラマなどによって人物像が脚色されていくことがあります。
伊達政宗もその代表的な人物でしょう。
調べてみると、「史料から確認できる伊達政宗」と「後世に語られる伊達政宗」の違いが見えてきます。
「独眼竜」の呼び名は、政宗が亡くなった1636年から約200年後、江戸時代後期の儒学者・頼山陽が政宗を詠んだ漢詩の中ですでに「独眼龍」と表現しています。
「独眼竜」という呼び名も、政宗本人が名乗ったものではなく、 後々わかりやすい呼び名が追加されていったのかもしれませんね。
そして、その「史実と伝説」という関係は、今回紹介する燭台切光忠にも当てはまります。
伊達政宗と日本刀
戦国武将にとって、日本刀とは武器として使うものだけでしたでしょうか?
戦いの道具であると同時に、権威を示すものでもあり、贈答品や褒美、そして家に伝わる宝物としても重要な存在だったようです。
伊達政宗と燭台切光忠は、その強烈な逸話によって 現在まで名を残しています。
燭台切光忠は、茨城県水戸市の徳川ミュージアムで「伊達家伝来」の刀として紹介されています。
燭台切光忠とはどんな刀なの?
燭台切光忠は、鎌倉時代の13世紀に備前長船派の刀工・光忠(みつただ)が制作したとされる刀です。
文化遺産オンラインでは「刀 銘 無銘(燭台切光忠)」として登録されています。
つまり、刀身に銘は刻まれおらず、無銘なのに、 燭台切光忠と呼ばれているということです。
では、なぜこの刀が「燭台切」と呼ばれるようになったのでしょうか。ここで伊達政宗が登場です。
なぜ「燭台切」という名前なの?
燭台切光忠には、伊達政宗にまつわる有名な逸話が伝わっています。
政宗が家臣を斬ったところ、その勢いで近くにあった青銅の燭台まで切れた――。
そのため、この光忠は「燭台切光忠」と呼ばれるようになったと伝えられています。家臣を切ったという部分は、あえて触れませんが、青銅でできた燭台って刀で切れるものですかね。ルパン3世の五右衛門の斬鉄剣を思い出しました。
しかし、ここで少し立ち止まって考えてみる必要があります。
本当に伊達政宗は、人と燭台を一緒に斬ったのでしょうか。
燭台を斬った話は史実なの?
燭台切光忠について調べるうえで重要な史料の一つが、『武庫刀纂(ぶことうさん)』です。
『武庫刀纂』は、水戸徳川家8代当主・徳川斉脩が文政6年(1823年)に、水戸徳川家伝来の刀剣を刀工ごとに編纂した刀剣帳です。徳川ミュージアムにも現存しています。
ここで注意したいのは年代です。
伊達政宗が亡くなったのは1636年。一方、『武庫刀纂』が編纂されたのは1823年です。つまり、政宗の時代から約200年後の資料。
「政宗が実際に家臣と燭台を斬ったことが、同時代の史料によって証明されている」のではない事です。
単なる噂でもありません。水戸徳川家に伝来した刀剣について記録した資料にはきちんと紹介されている逸話なのです。
史実なのか、後世に脚色された話なのか。あやふやなことを考え楽しめるところも、日本刀に残された逸話の面白さですよね。こはくは大好きです。
燭台切光忠は伊達家から水戸徳川家へ
燭台切光忠は伊達家から水戸徳川家へ渡り、現在まで伝えられました。
文化遺産オンラインでは、伊達政宗から水戸徳川家2代当主・徳川光圀に譲られたという逸話を持つ刀と説明されています。
徳川光圀といえば、「水戸黄門」として知られる人物。
燭台切光忠がどのような経緯で政宗の手に渡り、さらに水戸徳川家へ伝来したのかについては、諸説あります。
政宗と燭台切光忠の逸話程の話はこはくが調べた範囲では確認できませんでした。水戸黄門様との逸話があれば、呼び名も変わったのでしょうかね。それとも二つ名を持つ名刀となったかもしれないですね。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、織田信長から豊臣秀吉、伊達政宗を経て徳川家へ渡ったとする伝承を紹介していますが諸説あるようです。
いろいろな名将を渡り歩いた刀としても興味深い。
関東大震災で焼けた燭台切光忠
この刀の物語は、江戸時代で終わりません。
大正時代の関東大震災にまつわる話もあります。
燭台切光忠は関東大震災で被災した刀の一振りです。文化遺産オンラインにも「大正12年(1923)の関東大震災で被災刀となる」と記録されています。
ところが実際には失われておらず、焼身(やけみ)の状態で保存されていました。そして2015年、その存在が公表されました。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、2015年4月30日、徳川ミュージアムが焼身のまま保存されていたことを公表。同年5月17日には一般公開されました。
現在も燭台切光忠は徳川ミュージアムに所蔵されています。同館では燭台切光忠の調査研究が進められ、現代の刀匠による再現刀も制作されました。
一度は失われたと思われた名刀が、焼けた姿になりながらも100年近い歳月を越えて残っていた。
燭台切光忠の魅力は、「よく切れる名刀」という話だけではなく、「名将を渡り歩いたと伝わる名刀」、「関東大震災で被災した名刀」等いろいろな角度から見てみると面白いですね。
鎌倉時代に備前で生まれた刀が、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉と関係があり、伊達政宗の逸話と結びつき、水戸徳川家へ伝わる。
関東大震災という大災害に遭いながら、焼身となって現代まで残っている。
刀そのものだけを見れば、火災によって本来の姿を失っていますが、
「燭台切光忠」という名前と、その刀にまつわる物語は失われていません。
一本の刀から何百年もの日本史を見る。
刀工の歴史。武将の歴史。大名家の歴史。そして災害を乗り越えて文化財を後世へ残そうとした人々の歴史。
燭台切光忠は、そのすべてが一本の刀につながっている非常に興味深い刀ですね。
まとめ
燭台切光忠は、鎌倉時代の備前長船派の刀工・光忠が制作した名刀。伊達政宗ゆかりの刀として伝えられています。「伊達政宗が家臣を斬った際、燭台まで切った」という有名な逸話から燭台切光忠と呼ばれている。
ただし、歴史上の逸話を調べるときには、「伝わっている話」と「史料によって確認できる事実」を分けて考えることも大切です。
燭台切光忠の場合も、政宗の逸話、水戸徳川家への伝来、関東大震災での被災、そして現代での再発見と、時代ごとに異なる物語が重なっています。
日本刀は単なる武器ではなく、人から人へ受け継がれることで歴史そのものをひも解く手がかりとなる。
燭台切光忠は、そんな日本刀の面白さを感じさせてくれる一振りだと、こはくは思います。
現在は徳川ミュージアムが所蔵しています。

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